はじめての電子状態計算
 〜DV−Xα法分子軌道計算への入門〜


                    三共出版株式会社   
     監修:足立裕彦             
     著者:小和田善之、田中 功、中松博英、水野正隆


はじめに

  核反応を除く物質のすべての物理的・化学的性質は、その中に存在する原子核と電子の挙動がわかれば理解できます。また通常は原子核は電子よりもずっとゆっくりと運動しているため、原子核の位置を固定して電子の運動だけを取り扱うという近似を行うことができます。つまり、物質の物理的・化学的性質や挙動を理解することと、その物質の電子状態や挙動を理解することは、全く等価です。しかし、電子のふるまいは、私たちが直感的に理解しやすいニュートンの運動方程式に支配されるのではなく、シュレディンガー方程式によって記述されます。従って、波動関数とか電子密度といった私たちに親しみがなかったなにかしら神秘的なものを駆使してやらなければ正確に取り扱うことができません。この波動関数や電子密度を理解するには、ふつうのニュートン力学の世界で生きている人には、それなりのトレーニングが必要です。しかし、頭が十分にこの概念になれてしまえば、シュレディンガー方程式によって記述される世界は、むしろ極めて単純であることも理解できるでしょう。
 電子状態の計算は、この「頭の慣れ」の大いなる助けとなるものです。多くの人にとって、概念を数式だけで説明してある教科書を読破するよりも、物質中の電子の波動関数の形やエネルギー分布を視覚化する体験を重ねることが、電子のふるまいを直感的に理解するためにはるかに効率が高いでしょう。
 では、このようなトレーニングはなぜ私たちに必要なのでしょうか?自然の摂理を理解し、知的好奇心を満足させることは、我々人類の重要な営みですが、電子状態を理解するためのトレーニングの目的は漠然とした知的好奇心のためだけではないのです。21世紀の到来を間近に控え、私たちの材料創製技術は、大きな2つの方向を期待されています。その1つは超微細化です。すでに実験室レベルでは原子1個ずつを人間の手で並べることができますし、半導体デバイスや先進セラミックス材料では、原子数層の並びをきちんと制御して作製した材料が工業的に大量生産されています。このスケールになると、私たちのニュートン力学は、時としてとんでもない間違った答えを出します。シュレディンガー方程式を理解することは21世紀の材料工学には必須条件となるでしょう。もう一つの大きな潮流は、知的な材料設計を目指すものです。人類は錬金術の昔から、目的に対して網羅的に材料探索を行うという歴史をたどってきました。高度成長期には、1つの特性を向上させるために、何百という試薬を混ぜて試して見るというような手法もしばしば行われました。しかし、この手法をとったことで、人間の労力の無駄は仕方ないとしても、莫大なエネルギーの浪費と有害な廃棄物の増大を招いたことを忘れてはなりません。21世紀にはこの労力の多くを計算機に肩代わりさせ、クリーンで高効率な材料開発を目指すことが必ず求められます。先に述べたように、材料のすべての物理的・化学的性質は、その中に存在する電子の挙動に帰着できますので、電子状態計算を正しく行えば、的確な材料設計が、可能であるはずです。これを私たちは特に量子材料設計法と呼んでいます。
 シュレディンガー方程式を解き、物質の性質を理解する試みは、量子力学の創生期に始まりましたが、多くの電子から構成される材料についてのシュレディンガー方程式を精度よく解くことは膨大な数値計算を必要とするため、近年まで一部の専門家だけのものでしかありませんでした。ところが、最近の数年間に、高性能のパーソナル・コンピュータが広く普及し、この分野に興味を持つすべての人が手元で、精度の高い電子論計算をすることが可能となってきました。これにより、材料の物理と化学の様々な問題へ電子論計算を適用するためのハード的な共通基盤ができあがりました。これにソフトの息を吹き込むことで、量子材料設計の時代がまさにスタートしつつあります。みなさんは今、この時代の創生期を経験する歴史的に重要なチャンスに恵まれました。このチャンスを生かすのか背を背けるのか、選択するのはみなさん個人です。
                              1997年11月
                                  著者一同



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